真っ白な髪になった母が最後に見せたガラス越しの笑顔

家族・人間関係

こんにちは。【心を整える専門ノート】へようこそ。
私の子供たちがまだ学生の時、父のお墓参りに来た帰りに実家に寄った時に、70代の母は白髪一色になっていました。11月頃だったので、お正月はどうしているの?と聞いたら、「お正月は金かかるから来るな!」といわれて10年、妹から、母は徘徊が始まったので施設に入れたと連絡がありました。

最後のお土産は干し芋

千葉県にある介護施設に入所していた母は、介護用の服を着て、転ばないようになっている靴をはいていました。お見舞いに行った時、他の入居している人と喧嘩になるから、干し芋は預かるからと施設の人に言われました。後に美味しかったと食べてくれたようでした。母は「もう、帰ろう」と言っていましたが、施設からは出られません。それから徐々に認知症の症状が強く出るようになりました。妹が施設に何度も足を運び、母のために尽くしてくれました。

住宅ローン返済のパート代8万6千円をちょうだいと言った母

60代の母と5歳の娘と1歳の息子が楽しそうに遊んでいる写真があります。葬儀の時、妹が用意してくれたアルバムから、携帯でスキャンしておいた写真です。あの頃の母は優しいおばあちゃんでした。なぜ冷たくなったのでしょうか。私が家を建て、住宅ローンを払うために、戦場のような会社で必死に働いて稼いだ8万円程のお給料を、「ちょうだい」と電話してきました。「それはできない、大事なお給料だから」と断った時の気まずさがありましたが境界線を引きました。母の言葉は、私の家族を守る決意をさらに固めさせました。

コロナにかかった母が、肺炎で亡くなるまで

介護施設で流行してしまったコロナウイルス。母も移ってしまい、肺炎になり、いよいよ危ないと妹から連絡がありました。母が元気な頃、夫が案内してくれた介護施設で、鍵のかかった入り口でガラス越しに笑顔で手を振る母に会えたのが最後でした。コロナだったので看取ることもできずに、お通夜で看護婦さんから、苦しまないで眠るような最後だったと聞いて、少し救われた気持ちでした。棺の中の母のお顔は眠っているような安らかな表情でした。母の人生は果たして幸せだったのでしょうか。私は何度も生まれて来なければ良かったのにと思っていました。私を産み育ててくれたのは紛れもなく母なのに、私は冷たい長女なのでしようか。今の私には、ガラス越しに最後に見た母の笑顔が忘れられません。

いわゆる毒親と思う両親に育てられ、今でもその呪縛を感じることがあります。子供の頃の傷は癒えることはなく、いつも両親の顔が浮かび上がってきます。お見合いで知り合った両親は、母のアパートに父が転がり込むように住み着いた、母のお腹に入った私を、妊娠5か月になるまで母子手帳をもらわなかった。ならば墜ろしてほしかった。生まれて来たくなかった。このお盆を前に、両親の子供になりたくなかった思いがこみ上げてきます。

61歳になった今だから話せる、毒親という重りを外して自由に生きるための、仕事と心の整え方をまとめたものです。辛かった子供時代から、結婚するまでの葛藤と戦いを書いたkindle本があります。もしよろしかったらお手に取ってみてください。
『親の呪縛は関係ない: どん底から這い上がった私のメンタル再構築術』望月 凛(もちづき りん)

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。
86歳で亡くなった母。施設で楽しそうに遊んでいた写真があります。遺影にしたのは施設で撮った微笑んだ母の顔です。毎朝、お茶とお線香をあげて、手を合わせていると、声が聞こえてくるようです。「元気なの?よかったねぇ」と私たち家族を守ってくれているようです。
それは私が今の年齢になったからこそ聞こえる母の言葉です。

皆様のご家族に、健康と幸福が届きますようにお祈りいたします。

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